uguisumoti123’s diary

僕の日常の経験等から導来された感想、雑感等を思いつくままに(徒然なるままに)綴ってゆきたいと思います。理性より感性派の僕なりの視点で捉えた内観、作品鑑賞の感想批評他を感性派の僕なりの感覚を働かせて綴ってゆきます。写真他について、(レトロ)ゲーム、漫画、日常生活で感じた(気付いた)事の雑感、他。新型コロナワクチン問題も。知的生活の事も。Twitter:「餅@sinkoumoti」「うぐいす餅#2@uguisumoti2」「うぐいす餅@uguisumoti1」等も。生まれつき観音(霊格7~8次元)と思っている

【インプロヴィゼーション雑感#2】ガンダムのニュータイプの概念の考え方に対する問題提起

昔から何となく思っていたことだが、最近気付いたことも加味してガンダムシリーズニュータイプ(とやら)の概念の考え方について、僕なりに考えたことを述べてみようと思います。[後に追加補正項目あり]

 

 

最近、作者の富野由悠季氏はガンダムシリーズで唯一まともにニュータイプと言いうる人物は『Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンだと述べていたようです。ファーストガンダム視聴(1981年頃の再放送)後、最新作のTVシリーズガンダムが始まると1985年初頭(小5の終わり頃)学校でも話題になっていました。僕はZガンダムのZの読み方を言い間違えて友達から馬鹿にされたりしていました。そんな状況下で『Zガンダム』は始まりました。OPの曲『Z・刻をこえて』を聴いた時、こんなタイプのアニメソングは初めて聴いた(難しい、大人青年向け?、従来の分かりやすい曲調でないと感じた)と感じていました(それの第二弾ショックは1987年の『ハイスクール奇面組』のOP『時の河を越えて』でこんな何か不安な気持ちにさせるようなアニメソングは初めてだという感想だった)。[両曲とも「時を越える」という曲名に共通項がある、よく見ると。時間(4次元軸)を越える→5次元以上?とか何か解釈できるか?]

 

 

しかし、EDテーマの『星空のBelieve』はガンダムシリーズで一番良い曲なのではないかと思わせる名曲で作品内容の暗さからこの曲に救われたという人が結構いたようです。僕は『Zガンダム』は最初の数話見ただけでカンダムMk2

は出てくるがZガンダムがさっぱり出てこないので(どうも後半?くらいに出てきたよう)分かりにくいと思い、面白くないと判断し視るのをやめてしまいました。[音楽でも最初のイントロの3~10秒くらいで良い曲かどうか判断できたりする(僕の経験上)ので]その判断は意外と正しかったのではないかと後になって思うようになってきました[つまり掴み(つかみ)の部分が無いと思った]。だから『Zガンダム』で好きな部分はEDテーマ『星空のBelieve』だけと思っています。OP2の森口博子の『水の星へ愛をこめて』は何かの拍子に聴いたことがあるくらいの記憶でED2の『銀色ドレス』は記憶がなかった(曲の良し悪しはまあまあといったところ)。つまり後半はほとんど観ていない。あの『星空のBelieve』の走っている女の子ファ・ユイリィに至っては名前、素性を知ったのは昨年(2020年)くらい(初視聴から35年後)で全く耳に入ってこなかった。調べてもいなかった。カミーユの彼女とかは知っていたがアムロフラウ・ボゥ程には全く知らなかった。映画『逆襲のシャア』は観ているので(あと『ガンダムF91』か)おぼろげな断片的な記憶、知識ですが(『ファーストガンダム』は3~4回は観ていると思う)それだけでも結構ニュータイプについての考え方、意見が出てくるものです。

 

富野由悠季氏は学ぶことを知らなかったアムロやシャアは本当のニュータイプとは結局言えなくオールドタイプとして死なされなければならなかった、ように述べているようです。全く視聴していないカミーユ(最後戦場で精神崩壊して戦場を離脱したが、結局学ぶことを知っていた。人の心の歪みが収束的に襲ってきて精神崩壊したよう。後、療養中とかも人の心に寄り添う態度を取り続けたようで、回復後は月面で医者をしてファと暮らしているという設定になっているようです)が人の心を考える、学ぶ姿勢を取り続けたことが真のニュータイプの理念に適っていると作者から評価されているようです。

 

アムロも決して悪い奴とは全く思えないのですが、シャアは少し問題があると感じられ、少し述べたいと思います。

 

ファーストガンダムには良い(性格の)人物が結構登場しているように見えるので、その辺りで考えてみたいと思います。

 

ガンダムシリーズで屈指の好人物はランバ・ラルと思っています。ランバ・ラルのグフとアムロガンダムタクラマカン砂漠だかで闘いになりました。白兵戦で切れて開いたグフの登場席に座っていたランバ・ラルガンダムとの性能の差が腕の差になっているとか述べたり、ランバ・ラル特攻でホワイトベースに突入してきたランバ・ラル隊との戦闘の最後、「戦場での男の死に様とはこういうものだ」と手榴弾の線を切って自決したランバ・ラルの態度はアムロに教訓を与えている先生、師範役とも見え(心の父親がいなかったアムロの父親役だったよう)、人格の高潔さはガンダムシリーズで屈指だと思っています。

 

アムロの心にインパクトは与えたではありましょう(ランバ・ラルはオールドタイプだが)。しかし、シャアの方はどうでしょう。シャアの素性はジオン共和国の初代首相ジオン・ズム・ダイクンの息子キャスバル・レム・ダイクンで妹のセイラ・マスアルテイシア・ソム・ダイクン。宇宙世紀0068にジオン・ズム・ダイクン(ジオン共和国)が死去後(デギン・ザビに暗殺されたとされている)、デギン・ザビを首長(公王)に据えたジオン公国ができ、ダイクンの遺児二人は追われたと。それでザビ家への復讐のためにシャア(キャスバル)はセイラ(アルテイシア)のもとを離れ去ったというシーンがファーストガンダム中にも描かれていました。この辺りは分かります。目的がザビ家の打倒でそれはファーストガンダムで果たしています。問題はザビ家を打倒したタイミングで、0079年1月3日からの一週間戦争(サイド1,2,4,5が壊滅、「ブリティッシュ作戦」だとかでサイド2コロニーをシドニーに落下させた)と0079年1月15,16日のルウム戦役で地球人類の総人口110億の半数55億人が消えたと[わずか2週間くらいで]。ファーストガンダムのオープニングでもザクⅡがコロニーを落とした描写がある。恐ろしい考えです。「人類が宇宙に移民し始めて既に半世紀経っている(79年)」と、オープニングのナレーションでも。こういうこと(コロニー落とし)をしそうな雰囲気(危険)は移民当初からすぐ考えつくと思うが。その戦闘の人類55億を消滅させた軍勢[ギレン・ザビ総帥が指揮を執って55億人を消滅させたということか。それで気が触れない(初めから気が触れている(様な顔をしている))のはある意味すごい。人間の心か?という]の配下でシャアは地球連邦軍の戦艦を5隻一瞬の内に落としたとか恐れられガンダムの最初でも赤い彗星のシャアが赤いシャア専用ザクで現れたとホワイトベースのブライトの前の艦長に恐れられていた描写があったが、シャアの上司のギレン他ザビ家の連中が55億人を葬ったことが実は見落とされていると思う。シャアはせいぜい数隻の戦艦を落とした名パイロットくらいでやっていることはギレンとかの方が恐ろしいと思う。そこを何となく視聴者は皆見落としている気がする。結局シャアがザビ家への復讐を完結させたのは一年戦争終結直前の0079年12月31日のことで戦争犠牲者を食い止めるまでのことはしていなかった。

 

 

ニュータイプは殺傷能力の高いパイロットのことだとしたら、ニュータイプが続出し始めた『Zガンダム』以降は55億人消失後の戦闘で殆どパイロット、戦闘員同士の戦いで(民間人も多数犠牲になっているが)ニュータイプ同士が戦ったら殺傷能力のある者が消えていくわけで、最初の55億人消滅戦争と比較したら小競り合いにしか見えなくもない。そんな高い殺傷能力のあるパイロット同士が戦って勝つのが何か格好いいような考え方があるが、殺傷能力の高い者同士が戦ったら亡くなるのは何となくわずかで(殺傷能力の高い者がどんどん消えていくし)、本質的には殺傷能力は55億人を消滅させたオールドタイプのギレン等独裁者に敵っていないと思う。だから平成時代は何となくニュータイプ能力みたいなのが格好いいような風潮だったが、考えていることは小競り合いに勝つことくらいで人間的には小さかったと思わずにはいられない。[昭和時代のアニメ『アニメ三~士』のOPテーマを少し視聴しただけでも何かやらなければやられるみたいな何かじめじめした雰囲気を感じ、僕の感じ方でない、いかん雰囲気(「これ駄目だわー」とか)のアニメだと昭和時代に平成時代の考え方の危険性を何となく感じていたのだろう。それとニュータイプの危険性。このダブルパンチで平成時代が流れてきたのならおかしくなるの当然だわ、と僕が感じる理由です。そんなアニメ中身は見たことなくて何となくで言いますが。よく知らないが。考え方としては。まさか『ファイアーエムブレム』の世界観の原点でないだろうな?この夢のなさ]

 

 

それでこれでもかこれでもかと富野由悠季監督はニュータイプ戦闘物を量産していくが、教訓はファーストガンダムに(せいぜいZガンダムに少し)既に全て集約されていてあんな悲惨なニュータイプ同士の悲惨な戦闘が本当に格好いいのかという反面教訓みたいになっているように見えなくもない。そうとしか思えない。心っぽい雰囲気はファーストガンダムくらいしかないように見える。

 

だいたい、ファーストガンダムの最後のアムロとシャアの剣での生身の体での一騎討ちの際、シャアがアムロに向かって「お前程の男が」等と言っていたと記憶しているが、何を言っているのか、と。16歳の少年の殺傷能力ニュータイプ力を心よりも評価している態度が見て取れる。シャア(20歳くらい)はランバ・ラル(35歳くらい)の人格とかは唯のオヤジ(のオールドタイプ)くらいにしか見ていなく年下の少年に向かってそのセリフ。ここがシャアの問題点をファーストガンダムですでに表している箇所の一つと思う。作者の富野由悠季監督もそこを何となく考えているとしか思えない。ファーストガンダムの名曲の数々の作詞を見ても。そして極めつけは『逆襲のシャア』でシャアは小惑星アクシズを地球に落下させ地球寒冷化を図ろうとしていたこと。これはギレンが行ったコロニー落としと同じことだ。サビ家への復讐を果たした後結局行き着いた目標がギレンと同じことだった。しかし、地球から次々とモビルスーツアクシズを落とすまいと押し戻そうとし、ついにアムロとシャアが亡くなるはなむけエンディングでアクシズは軌道を変え墜落しなかった。普通あのモビルスーツくらいの力では間違いなく墜落していると思うが。ここが学ぶことを知らなかったアムロもシャアも真のニュータイプでなくオールドタイプとして死なされなければならなかった、と富野由悠季監督が言及している問題点だと思います。彼らの功績に報いて最期はアクシズ墜落は避けられたが、墜落していたら、ギレン等の大悪党と同じことになるはずたったと。これがニュータイプ概念の間違った解釈に対する警鐘になっていると思います。つまり、僕の解釈ではガンダムファーストガンダムで完結していると。ハッピーエンドの雰囲気があったから。ニュータイプ概念の間違った使用への警鐘がカンダムシリーズの意味、意義なのではないか、と。そう思うようになってきた訳です。以上。

 

 

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